なので時々形成される「集団」というものが、とっても貴重で、ありがたくて、守らなければすぐに粉々になってしまうと思っているので、家庭にしろその他の集団にしろ、意識を傾けてそれを存続しようと頑張る傾向があるようです。それが、沢山の「愛してる」の言葉だったりするわけですね。(言わないと、言われないと不安に駆られてどうしようもなくなるみたい)
しかし日本ではまず人っていうのは「集団」だ、という認識の文化があります。
なので時々無性に「個人」になりたくなって、一人離れて静かなところに行ってみたく…なんぞなるみたいで。ともかく常に集団のことを念頭に置いてないと、なかなか身動きがとれにくい…なんてこともあります。
これらは文化の違いですから、どっちが主体だって、どうってことない。
ただ単に、人には「個」という面と「集団」という面の2面があり、そのどっちかしか大事にしないのでは、困ったことである…ということですね。
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私はといえば…、先週中ごろぐらいからようやっと心がほぐれて(一学期間に起こった有象無象の出来事を一生懸命にやり、緊張やら筋肉やらがパンパン…って感じ?)きた感じがして、なんとな〜く自分を遊ばせられるような心境になってきていたのですが…。
ところが今週に入り、最初は「よぉし、あと1週間の間だけでも心行くまで遊んじゃるっ」とか思っていたのがもぉ…。(-_-;) 子供の休み明けの提出物の整理や何やで…はっぱかけまくらなくちゃなんなくなって、はぁ…みごとに目算が吹っ飛んでしまいました。
おおぅ…。私の心の休暇は実時間「2,3日だったのか!?」と、ちょっと…。呆けちゃうもんね。
もう今週は研修やら臨時登校日やらでセカセカよ〜。 ただでさえ貴重な残りわずかな暇さえ…!?
さだめぢゃ?(by錯乱坊(爆))
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相手が自分と同じ意見を持っていると、安心しますよね。嬉しくなっちゃったりと。
で、自分とは違う意見の部分も当然あるわけです。別の人、別の人格なんですから。
人それぞれ。色んな人がいる。
だから何から何まで全部同じだ〜なんて人のほうがこれは異常だということです。
どこかしら、自分と違った部分や違ったものの見方を持っているのが、人間です。
そしてこの、「どうやら自分は相手とは違う部分を持っているらしいな〜」というその部分が、「個性」という部分かもしれなくて。
でね、「同じだ」という部分ばかりが大事にされる?
…そういうケースが「集団」を形成すると、どうも出てくるのが今の時代なのかもしれないなと。
「自分達と同じ」「みんなと同じ」…ということが“求められ過ぎる”と、
対極である「自分達と違う」「みんなと異なる」というものは、
“誤りである”“間違いである”“悪いことである”としか、言い様がなくなってしまう。
誰だって自分は悪くないと思いたいものです。
「自分(という存在)は間違いである」…なんて思ったら、どんなに生き辛いことでしょうか。
人は誰だって、みんなと同じ部分とみんなと違う部分を常に持っています。
「そのどちらかしか正しくない」なんてものの見方…、偏ってますよね。
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それは、17,8歳のことだと思うのですが、学校の家庭科の授業で班ごとでクリスマスケーキみたいな円型の大きなケーキを作成することになったのですが、班の中に、うちでしょっちゅうケーキを焼いていると言っていた子が居たのもあって、余裕綽々のぞんだものの、失敗。上手くふくらまずにぺしゃんこのスポンジにクリームをつけて完成…という不本意な終末を迎えたのでありました。
若気の勢いもありましたし、落胆を声に発散してストレスを吐き出したかったのあったのか、「これは悲しい。こんなことならもう無いほうがマシだよ〜」みたいな泣き言が出たのですが、それに乗じて「じゃあ私に頂戴よ」と言った子が居ましてね。 話の勢いで「あげるわよもぉ!」みたいな受け答えに流れたんですが、その子…、本当に私の分、持って帰ってしまったんですね…。
あのとき…、もう少し私のプライドの鼻っ柱が低ければ、「冗談よ」とか「言葉のあやよ」とか言いながらかわして、本当はこんなものでも大事な自分達が作ったケーキなんだから…って、守れたと思うんですが…。自分が言った言葉で引くに引けなくなって、結局無くしてしまったんですよね。自分のお土産ケーキ。(-_-;)
とっても悔しかった。情けなかった。相手の言葉尻に乗った為に、自分の大事な成果を二束三文で売り払った自分に腹が立った。
だから私は、以後二度と、この過ちは繰り返すまいと誓った。
…あの犯人には、こうしたくだらないことでのプライドの攻防は無かったんだろうか…って。そこが残念でたまらない。取り返しのつかない失敗の前に、小さな失敗で懲りていたら…と思えてならない。
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私も相手の深いところまで考え思い至れない。」
これがね、自分のみの不幸を深く思い悩んでいる時には、
なかなか身に染みて受け止めきれない傾向、があるのだと私は思うのです。
なんと言いましょうか、「誰かにとても深く自分のことを理解してもらいたい」という願いを、強く強く抱いていると、「自分もそう思っているのだから、きっと相手もそういう願いを根底に強く抱いているに違いない」と、確信をもって動いてしまうんだと思うんですね。
これこそ、「自分の中に有るもの」にしか思い至れはしない…の構図でしょうか。
でも、実際はどんなに強く「相手のことを深く思おう、理解しよう」と考えたり動いたりしてみたりしたとしても、絶対に相手と同じ位にまでたどり着くことは、どんな人間にも、出来ないと思うのです。
それはもう、人間という生物の、能力の限界としか言えないレベルかもしれないんじゃないかな。
で、そんなわけで一生懸命「相手のことを深く理解しよう」と思っても、そんな風には絶対出来ない。
それが現実。 そうすると、その能力の無い自分に、落胆するというか、嫌になるというか、嫌いになるというか、自信が喪失するというか? そういうことが起こってくるんじゃないかなと思うんです。
仕舞いに逆ギレて、「こんなに私が貴方のことを深く理解しようと務めているのに、何故貴方は不意にするんだ(私が理解してる通りの貴方になってよ)」なんて思ってしまったり…もね。(-_-;)
最初から、誰も、思い至れないんだと思います。
私も、誰のことの最深部まで読み取れ切れるわけがない。
誰も、私のことの最深部まで読み取れ切れるわけがない。
でもそこが入り口。コミュニケーションはそれを踏まえた上からでしか、始まらない。んじゃないかな。
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実はこれは、DVや性同一性障害といった問題を取り上げた記事に一文だったのですが、
“その人にとって愛情表現は暴力である”…というケースも実際にはあるのだと思います。
誰かにとって考えられないような意識の流れや事柄でも、当事者にとっては真剣な流れ、事柄。
そういうことを「一般的でない」ということで切ってしまうような流れの中では、それはもう
“「一般的」でなければ、考えも思いやりも「持てなくてもしかたがない」(持てない私は悪くない)、
想定の範囲外(範疇以外を求める貴方のほうが悪い)”、
とでもいうような、事になってしまうのだと思うのです。
実際、「自分の中に無いもの」の事まで、人間なんてちっぽけですから、考え至れも思い至れも私はしないんだと思います。 でも、それは誰にとってもそうだと思うんです。
相手も私の深いところまで考え思い至れない。
私も相手の深いところまで考え思い至れない。みんな至れない。
だから誰も誰かを責めたりなんか出来ない。みんなそのまま暖かく包み見守るしか。
そういう考えや思いこそが、私は大事なんだと思います。
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そういうことをきちんと考えたり、訓練する場が、乏し過ぎるのでは…。
…公共の場は、仲間内だけの場はなく、不特定多数の人々も、一緒に居合わせている場所。
そういえば前に、「電車内で化粧をする女性」についての考察で、
それをしている女性にとっては、そこは公共の場ではなくて。
彼女にとっての公共の場とは、
自分の相手をきちんとしてくれる「仲間内」と一緒に居る場だけで、
その仲間内が一人も居ない場所は、私的空間でしかなくて。
その場に居合わせている人々は彼女にとってはただの石ころにも等しい。
だから、石ころの前で化粧をしようが、なんの気兼ねも無い…
というようなものを読んだとき、ものすごく納得してしまったことがあるんですよね。
まさに、カラスの勝手でしょのシッペ返し…?
…そういえば、舞台に立つとき上がらないようにするように、こんなふうに言いますよね。
「お客は石コロだと思え」。(^_^;) つまりは極度の「あがり性」?…というものの見方も…?
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人が褒めてくれる力には、何かすっごいパワーがある気がします。
だけど、いつでも、また毎度、褒めてくれるとは限らないもので…タイミングもあるでしょうし、色んなことがあって「褒め言葉」を頂けない時だって有りますもの。 でも人からの褒め言葉がもらえなくても、それでも自分で自分のネジ巻いて、なんとか自分を動かしていかないといけませんから、「自力で自分をそれなり上手に褒める」の技も、体得しておかなければどうにも効率が悪いってものですかね。(^_^;)
子供もきっと、「子供自身で自分のネジを巻いて動く」の技の体得が必要なのでしょうね。
それが一人立ち?
今はまだ親が少々手を貸してやらないといけないけど、いつまでも親が巻いてやることも出来ませんから、何年か後には自力でネジを巻ける力が体得できてゆくような手の貸し方が大事なんでしょうけど、ついつい流れのままいくと、親が親の都合でもって手伝ったり手伝わなかったりすることも、あるんですよね。実際のトコロ。(^_^;)
ま、人間ってのはそんなクセもあるものさ。と、自分を自分で慰め(ヨシヨシ)もしながら
ボチボチと?(^_^;) 褒めたり慰めたりなだめたりすかしたり。>自分を なはは。
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だから、額面通りに受け取ればそこには「規定のハードル」を飛べない者には、「ダメ」なヤツというレッテルが、待っている、という意味になるでしょうか。 で、誰だって自分(あるいは自分の子)がダメだなんて思うのは嫌ですもの。 だからもう、何が何でも「ラインより上にいなければ」と意識が、人々の根底に働いてしまう…のではないでしょうか。
では、それではそれでも、頑張っても踏ん張っても、やってもやってもライン以上にならない時は?
額面通りになぞらえれば、それはもう「ダメ」なヤツとしか言いようがないんですね。実際。
だって、「○○ならこれぐらいのハードルは飛べないとダメ」って、言い切ってますから。
でもそんなこと口にしたら「いじめ」ですよ。 「いじめ」はいけない、っていう意識は人々の根底にはあります。 同じ理屈で「いじめをするヤツはダメなヤツ」という意識を持っている。
では、「いじめない」ためには? この理屈通りになぞらえれば、多分それは、
「飛べ飛べってしつこく言わない」という、回避になるかな?
ある一点から一転して、「飛べない=ダメなヤツ」が、「飛べないでも=いい」になる。
不思議なぐらいに。
でもそれは、単に「いじめをする悪いヤツ」に自分がならないように回避している技なんじゃないかな。 相手のことを真に思って言っているわけじゃない。
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あの子はこれを持ってる、でも自分は持ってない。
あの家ではあれをしてもらえる、でもうちでは自分はしてもらえない。
○ちゃんが私にこんなことを言う、自分は何もしてないのに。
「こんな可哀想なことがあろうか(何とかしてくれ)!」
持ってない自分、してもらえない自分、ひどいことをされる自分。
なんて可哀想。これはもう守られるべきでしょう!?
強者は加害者で悪。弱者や被害者は、悪くない。
弱者や被害者は守ってもらえる。 強者は弱者や被害者に譲るべきであろう。
そう思っていると、もう誰もが強者になるのが嫌になるかもしれませんね。
でも、1年生は守ってもらえるけど自己判断で好き勝手動ける項目は少ないね。 そして、6年生はうんと自己判断で好き勝手動けるようになるけどその分守ってもらえる部分は少なくなるね。
1年生のほうがトクなこともあるし、6年生のほうがトクなこともあるよね。
でも昨今は、大人になるほうが損だという意識が強い世の中かな。責任に、トクが見出せない?
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